春日記

出会い

ピアノは生き物

輪禍を越えて  

ステージドレス

睡蓮:朝

春日記

四月初め、窓から満開の桜を眺めながら、翌日出発する渡欧のための荷造りをしていた。随分と風情があるように聞こえるかもしれないが、私の住まいは都心のマンションの上層階にあり、綺麗な桜を下から仰ぎ見るのではなく、はるか上から遠くの桜色を楽しむ程度である。おまけに今年は渡欧直前まで地方でレコーディングがあったのでバタバタと準備に追われ、東京のお花見はこの眼下に見下ろす「窓からお花見」だけに終わってしまった。

そうして数ヶ月留守にしていたベルリンの我が家に戻って来た。東京の桜陽気とはまるで違い、ベルリンは寒くまだ雪が降っていた。ほっと一息つく間もなく、今度は翌週に控えたイギリスでのレコーディングの準備に追われた。異なるプログラム、異なる国、異なるレコード会社、異なるスタッフでのレコーディングが続くというのは、結構大変なことである。その上今回はイギリスのレコード会社なので、スタッフも皆イギリス人である。普段はベルリンに来るとドイツ語の感覚を早く取り戻そうと必死なのだが、今回はそれよりも英語モードにしなければならない。このためテレビのチャンネルはいつもBBC(英国放送協会)のニュースに合わせていた。もっとも東京の家でもBBCが見られるのだが、つい他の面白い番組の方に目がいって誘惑に負けてしまい、このように直前になって慌てるのだ。

しかし幸いなことにレコーディングは無事滞りなく終わった。現場はとても和やかな雰囲気でありながらも快い緊張感があり、そのクオリティーの高い音作りに私は大満足だった。CDのレコーディングというのは共同作業である。スタッフ全員が演奏家とともに、それぞれの分野で十分にプロフェッショナルな力を発揮して初めて、良い作品が出来あがるのである。彼らに感謝しつつ私はイギリスをあとにした。久々にオフの気分を味わう私を歓迎してくれているかのように、ベルリンはニ週間前とはうって変わってすっかり春を迎えていた。抜けるような青空に木々の緑が鮮やかに映え、あちらこちらで花が咲き始めていた。小鳥たちの嬉しそうなさえずりに誘われて思わず上を見上げると、そこには見事な桜が咲いていた。

1999年5月)

 

出会い

幼いころ、室蘭の自宅にあった数枚のクラシックのレコードが全ての始まりだった。両親は童謡を聞かせたかったようだが、私は好きではなかった。それを聞くと、なんとも言えない息苦しさを感じたからだ。きっと歌を音楽としてではなく、人の声として捉えていたのだろう。でも時々かけてくれる、声の入っていないレコードは大好きだった。これがクラシックだった。ベートーヴェンの「運命」か何かだったような気がする。耳当たりが心地よく、いつまで聞いていても飽きなかった。

冬になって外で遊ぶ時間が減り、家の中でそんなレコードばかり聞く私に両親は、「レコードプレーヤー付きのクラシックレコードセット」を与えてくれた。私には、どのおもちゃよりも楽しくなり、レコード針が擦り切れるほど毎日毎日聞いていた。しかし、夏が来ても外に遊びに行かなくなってしまった。困った母は「あれは聞きすぎて壊れたのよ」と嘘をついて、どこかに隠してしまった。幼心に無理やり外に行かされたのを覚えている。

当時アパートの最上階(といっても四階)に住んでいて、エレベータがなかったので、外に行くには長い階段を降りなければならなかった。でもその途中、幸運にも私は新たな楽しみを見つけてしまった。ポロン、ポロンと心地よい音が聞こえて来たのだ。生の音を聞いたのは初めてだった。子供のピアノのおけいこだったのだが、その音に誘われ、私の足は完全に止まっていた。階段のおどり場に長い間佇んで好きな音楽を聞いている方が、外で遊ぶよりも、はるかに楽しかった。

ある日、その家にお邪魔する機会があり、見たこともない黒い物体に遭遇したのがピアノとの初対面だ。綺麗に並んだ白黒の縞模様に触れた瞬間、宝物を発見したように心が躍った。その日から毎日、居間のサイドボードに向かってケロヨンの椅子を置いて座り、その出っ張った部分を鍵盤に見立てて指を動かしていた。ピアノを買ってもらう日を夢みながら、熱意を強力にアピールしたのだ。半年以上たってようやく、念願のピアノ(一番安いアップライト型)が四歳半になった私のもとに届いた。それからは師との出会いにも恵まれ、ますます音楽にのめり込んでいった。そして今日に至っている。

今月、私の十一枚目のCDが発売されるが、幼い頃私と音楽を最初に結びつけてくれたのがレコードだったことを想うと、深い感慨を覚える。ひとつの小さな心をも動かす一枚のその重みを、今演奏家として、改めて痛感すると共に音楽に携わって生きる幸せをかみしめている。

(1999年6月)

ピアノは生き物

われわれピアニストは各コンサート会場で様々なピアノに出会う。これはピアニストならではの楽しみでもあり、また苦労でもある。他のほとんどの楽器の演奏家は肌身離さず自分の愛器を自らの手で持ち歩き、世界中どこにいっても常に同じ楽器で演奏することが出来る。そしてコンサート先のホテルの部屋でも練習が可能であるし、楽屋でもステージに出る直前までその楽器に触ってウォーミングアップすることが出来る。自分の楽器を持ち歩けないピアニストにとってはうらやましい限りだ。振りかえってみてもピアノの発表会、音楽学校の試験、国内外のコンクール等全て、その会場にあるピアノで演奏しなければならなかった。

しかしこうした舞台を重ね、ピアニストは色々なピアノに順応出来るよう自然に鍛えられていく。また余談だが、家で大変高価なピアノで練習している人もオンボロのピアノで練習している人も、その舞台においては皆同じ条件で平等に評価されるので、高価な楽器を持っていなかった私にとって、ピアノという楽器を選んだことは幸せだったのかもしれない。しかしプロのピアニストになると、コンサートに来てくれた聴衆に常に最高の良い音を、良い音楽を聴いて欲しいと切に思う。それを配慮して、大抵どこのホールにも立派なピアノが置いてある。ただピアノは同じメーカーの同じ器種であっても一台一台タッチも音色も全く異なり、保管状態や使用頻度などでも状態はまちまちである。事前にその辺の情報を入手しても、結局当日その会場に行って触れてみるまでどんな楽器が待っているのかわからない。

そこで一時期、全国各地のコンサート会場に特定のピアノの持ち込みを試したことがあった。常に同じ楽器で自在に弾けるという精神的余裕は私にとって大きなメリットだった半面、ピアノ自体は過密なスケジュールで大幅な移動を重ねるうちに悲鳴をあげ始めた。ピアノは、一面ではピアニストよりもデリケートな生き物であることを思い知らされた。

ピアノも人間同様、置かれている環境も個性も様々だ。リハーサルでは思わぬ悪戦苦闘をすることもあるし、期待以上の良いピアノで嬉しくなってしまうこともある。しかしどんなピアノでも、愛情を持って語りかけていると素直に応えてくれるようになる。じっくりと対話をするうちに、徐々に一心同体となっていくのである。このピアノという「魂を持った生き物」との出会いに期待と不安をいだきつつ、今日も会場に向かう。

1999年7月)

輪禍を越えて

東京は連日猛暑が続いている。ここ十年来、大抵夏は避暑と充電を兼ねてベルリンの家で過ごしていた。今年はスケジュール上、秋にベルリンに滞在するので、夏は日本でレコーディングやコンサートが入っている。この東京の暑さを肌で感じるのは三年ぶりだ。しかしちょうど三年前の今頃は、本当に辛い日々を送っていたことを思い出す。

それは、梅雨明け直後の七月下旬の出来事だった。東北地方でのCDレコーディング初日の朝、プロデューサーが運転する車に同乗し、滞在先のホテルから録音会場のホールに向かっていた。国道を直進していた我々の車は、左側に止まっていたトラックの陰から出てきた車に衝突した。幸い大事故には至らなかったものの、かなりの衝撃を受けた。しかし精神的ショックが大きかったせいか、身体が妙な感覚で、その状態がよくわからなかった。

なにしろ運転免許を持たない私が、車の事故に遭うなど想像したこともなかったのだ。救急病院では安静にして慎重に経過を見るように言われたが、「翌日からは録音が出来るに違いない」と自分に言い聞かせていた。

ところが、その夜から高熱と頭痛に襲われ、さらに翌朝は背中から首にかけての痛さ、だるさが加わって起きられなかった。いわゆる「むちうち」だった。ピアニストという職業柄、指先には相当な運動神経を必要としている。そういう状態では演奏を披露することが出来ないのはもちろん、無理をすると後々大変になるということで、半年間もの休業を余儀なくされた。当然、レコーディングは一音も録らぬまま中止となり、予定されていた数十回のコンサートもキャンセルしなければならなかった。

役者が「舞台に穴をあける」ことは大変だということを聞くが、演奏家もステージをキャンセルすることは大変である。代役の問題、チケット払い戻しの問題など被害は多方面に及ぶ。具合が悪く復帰への不安をかかえながら、こんな問題を耳にする度に、「どうして私がこんな目に…」とやり場のない思いで、眠れぬ夜が続いた。しかし、こうして長く苦しい半年を越して、幸いにもステージに完全復帰することが出来た。三年たった今、改めてピアニストとしての幸せをかみしめるとともに、戻って来た日常に日々感謝している。非日常の経験で得たものは、音楽家としても人間としても、意外に私を成長させてくれたのかもしれないと思えたりする。

そしてこの夏、三年前に幻となったCDのレコーディングが実現する。

1999年8月)

ステージドレス

女流演奏家ならではの楽しみでもあり苦労でもあるもの、それはステージドレスである。昔は、綺麗なロングドレスを着て、ステージで弾くことが夢であった。幼い頃、コンサートに行ってそんな優雅なピアニストの姿に憧れたのが最初だった。当時は発表会の度にどんなドレスが着られるのかとわくわくし、新しいドレスを作ってもらったりすると、子供ながらに「このドレスに負けないように弾かなければ」と励みになり、自然と練習にも熱が入ったものだ。

そして意外に早く、夢だったロングドレスを着て大舞台に上がれる日が訪れた。東京芸大附属高校の時、日本音楽コンクールで幸運にも本選に進むことができ、満場の日比谷公会堂で弾く機会を与えられた。もしかしたらこんな大舞台は二度と踏めないかもしれないとの思いが脳裏をかすめ、ドレスにも頭を悩ませた。出場者中最年少だった私は、結局真紅のドレスにした。

フランス人形の衣装のようで、今思うとちょっと恥ずかしくなるようなドレスだったが、これは私を幸運に導いてくれた忘れられないドレスとなった。優勝という信じられな結果で、ここから私のピアニスト人生が始まったからだ。コンサート依頼が次々に舞い込み、演奏準備はもちろん、ドレスの用意にも追われるようになった。

男性演奏家の場合はほとんどタキシードなので、着替えを考えても三着ぐらいあれば十分である。その点、女性の演奏家は同じドレスを何回も着るわけにはいかないので、常に新調しなければならず、大変なのだ。しかし季節感、また曲のイメージなどに合わせてドレスの色・デザインなどを考えるのは楽しみの一つでもある。

一回のコンサートの中で、一曲ずつ「お色直し」をするわけにはいかないが、大体そのコンサート全体の曲のイメージでドレスを選ぶ(例えば、葬送行進曲を弾く時に赤やピンクのドレスを着る気にはならない)。またどんなにデザインが良くてもファッションショーではないので、何より大切なのは動きやすさである。演奏旅行も多いため持ち運びに適しているかということも重要だ。そんな諸条件を満たしたドレスが、わが家のワードローブの中で色とりどりひしめきあっている。

一体今まで、どれだけのステージドレスを着てきたのだろう?着られなくなったステージドレスは仕方なく処分しているが、どのドレスにも様々なドラマがあり、色々な想い出が詰まっている。そしてあの真紅のドレスはどうしても手放せず、いまだにワードローブの奥にひっそりと置いてある。

1999年9月)

 睡蓮:朝

時折、「演奏中にはどんなことを考えて弾いているのですか?」と質問されることがある。返答にいつも困ってしまう。実は「何も考えていないから(?)」なのかもしれない。

コンサートでステージ上にいる時、レコーディングセッションなどその時々の状況によって若干の違いこそあるが、基本的に「何かを考えながら」弾いているということはないように思う。(たまに、自宅での練習時に集中力を欠き、空腹を感じて「食べもの」という雑念が頭をよぎることなどは例外として・・・。)演奏している時は聴覚が過敏になり、神経が末梢まで集中していて、身も心も音楽に委ねている状態であることは間違いない。「考えている」のではなく、「感じている」状態なのだ。

では演奏中、頭の中は全く真っ白な状態なのか?というと、そうともいえない。自発的に思考しているわけではないが、時々脳裏に映像が浮かぶことがある。その映像の種類は曲によってもそのパートによっても様々である。以前出会った景色や実在する絵であるとも限らない。実体のはっきりしない抽象的な映像であることもあれば、風景画のような映像であることもある。音楽から感じる直感的イメージが、勝手気ままに映像となって浮かぶのである。曲を勉強していく過程でその音楽と映像が不思議と一体化していき、いつのまにかそれは条件反射の如く必ず現れるようになる。昔からドビュッシーの音楽に接すると必ず、私の脳裏には抽象的ではあるが色彩的な映像が浮かんでいた。

パリのオランジュリー美術館を最初に訪れたのはもう10年以上も前になる。まだ東西が「鉄のカーテン」で仕切られていた西ベルリンに留学した最初の冬だった。初めて過ごす異国の冬は厳しく、日々鉛色の空を眺めながら暮らしていた私にとって、華やかなパリへの旅には心も躍った。当然、美術館巡りも楽しみのひとつだった。私は絵画に造詣が深い方ではないが、美術館に行くと普段どこかで眠っている感覚が呼び醒まされて、未知の自分をも発見出来るような気がする。それに何よりも絵画に囲まれたあの静かな空間が心地良い。その日も朝からオルセー美術館に行った。オルセーで印象派名画の数々を堪能した後、こじんまりしたオランジュリー美術館に足をのばした。もちろん、かつて絵葉書などで目にした「睡蓮」をどうしても見たかったからだ。そしていざその「睡蓮」に囲まれた時、私の中ではすっかり時が止まってしまった。壁一面360度の睡蓮はたとえようもなく、そこが美術館であることすら忘れてしないそうだった。その中に身を置くと、まるで目の前に睡蓮の池が広がり、その空気や静けさ、朝の光、樹々の匂いまでもを肌で感じるような錯覚を受けた。そして気がつくと、私の頭の中では静かに音楽が流れ始めていた。この曲はなんだろう?それはなぜか全てドビュッシーの曲だった。いつものように音から絵ではなく、逆に絵から音を喚起されたのだった。それまでドビュッシーを弾く時に私の脳裏に勝手に浮かんでいた色彩のみの抽象的な絵が、完成した瞬間のようでもあった。

昨年秋、イギリスでドビュッシー作品のレコーディングを行った。その時も私の脳裏にはやはりこの絵が現れ、あの「睡蓮の間」に佇んでいた時に感じたのと同じ空気に包まれていた。音楽から感じる映像と、映像から感じる音楽とが互いに重なり合うごとに、イメージはさらに膨らむ。このCDが出来あがる頃、またあの絵に会いに行きたい。

田部京子

(サントリー機関紙「MUSE」vol.82 ミューズ May 2001
「音楽の聴こえる絵」 より)

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